理想のウィスキーを作るため選んだ土地が北海道の余市町であったのだった

日本のウイスキーづくりの父と呼ばれる竹鶴政孝は、本場スコットランドに近い環境を求めて蒸溜所の建設地を探していました。
その結果、彼が選んだのが余市町です。
余市は、日本海から吹き付ける冷涼で湿潤な風があり、一年を通して気温の変化が比較的穏やかです。この気候は、スコットランドのウイスキー産地によく似ていると考えられていました。また、周囲には豊かな自然が広がり、ウイスキーづくりに欠かせない良質な水にも恵まれています。
さらに、当時の余市には石炭が手に入りやすいという利点もありました。竹鶴政孝は、本場と同じ「石炭直火蒸溜」にこだわっていたため、その製法を実現しやすい環境だったことも大きな決め手となりました。
こうして1934年、余市に蒸溜所が誕生します。現在でも伝統的な石炭直火蒸溜が受け継がれ、余市の豊かな自然と職人の技が生み出す力強く重厚な味わいは、多くのウイスキーファンを魅了し続けています。
竹鶴政孝が余市を選んだ理由は、単に土地があったからではありません。「本場スコットランドに匹敵するウイスキーを日本で造りたい」という強い信念を実現できる環境が、余市には揃っていたのです。
政孝を支えた妻リタの献身的な愛があればこそ

竹鶴政孝がスコットランドでウイスキー造りを学んでいた頃、彼はリタと出会いました。
政孝は「日本へ帰ることを諦め、この国に残ってもいい」とまで考えたことがありました。
しかし、リタはこう答えたと伝えられています。
「私はあなたの夢を共に生き、お手伝いをしたいのです」
その言葉を胸に、二人は遠く離れた日本へ渡りました。異国での生活は決して楽ではありませんでしたが、リタは生涯、政孝の夢を支え続けました。
1935年に余市へ移り住んだリタは、日本語を懸命に覚え、地域の人々や従業員の家族とも積極的に交流しました。
余市駅に到着した際には、多くの社員が出迎え、リタは
「ミナサン、オオキニアリガトサマ。主人トオナジク、ドウゾヨロシュウ。」
と挨拶したという微笑ましい記録も残っています。町の人々は親しみを込めて「リタさん」と呼び、異国から来た彼女を温かく迎えました。

リタが64歳で亡くなった時、落ち込んで葬式にも出られなかった政孝。
息子である威(たけし)の提案で、リタへの感謝を込めて特別なウィスキーをつくることにしました。
その時、誕生したのが「スーパーニッカ」
味わいもデザインもこだわった、リタへの究極の愛の結晶です。

この度の余市ニッカウヰスキー工場を訪れて、いちばん印象に残ったのがこのテイスティングバー
銅製のポットスチルが中央に鎮座して、有料だが好きなウィスキーを楽しめるという場所です。
残念ながら車で来ていたので飲むことは出来ませんでしたが、売店ではお酒の販売もあったのでミニチュアサイズの竹鶴を購入して宿で飲んでみました。
喉を通過してタイムラグがありながらのスモーキーフレーバが見ごとで、これが「彼が作りたかったスコッチウィスキーなんだな」と。
これで竹原市から出発したマッサンを追いかける旅が完成しましたが、いかがだったでしょうか。

