――紅葉目当てで通っていた寺が、急に深くなった話

広島県三原市の佛通寺。
1397年(応永4年)に開かれた臨済宗佛通寺派の大本山。
正直に言えば、これまで何度も訪れているものの、目的はほぼ毎回「紅葉」だった。
境内を流れる渓流、石灯籠の並ぶ参道、山に囲まれた静けさ。
秋になると、それらが一斉に色づいて、**「ああ、今年も来たな」**という安心感をくれる場所。
でも今回、少しだけ見え方が変わった。
木彫の坐像と、達磨の眼差し


堂内に安置された木彫の坐像。
派手さはないが、削り出された木の量感と、静かに結ばれた口元に、不思議な説得力がある。
その近くに掲げられた達磨の絵。
墨の勢いだけで描かれたような顔なのに、視線だけは異様に鋭い。
「紅葉のついで」で流していた空間に、
修行の寺としての顔が、急に浮かび上がってくる。
達磨の鋭い眼差しは、
「どう思った?」と問い返してくるようでもある。
三重塔と、季節を受け止める構造

佛通寺の三重塔は、主張しすぎない。
観光寺院のシンボルというより、山の一部としてそこにある感じがする。
地方の山寺で、室町がそのまま立っている場所は、もうほとんどない。
屋根の反り、朱の色、そして周囲の木々。
紅葉に包まれてもなお、「建物が自然に従っている」印象が残る。
必要なものだけが、必要な形で残っている。
禅寺らしい、引き算の美しさなのだと思う。
石に刻まれた言葉が、急に読めてくる

境内の石碑。
これまでは、正直ほとんど意識していなかった。
けれど、少し立ち止まって眺めると、
そこに刻まれた言葉は「教え」というより、生活の姿勢に近い。
山に囲まれ、川の音だけが響く場所。
季節の移ろいから逃げられない環境。
紅葉が美しいのは結果であって、目的ではなかった。
紅葉を見に来たつもりが、
いつの間にか自分の内側を整えさせられている。
紅葉の季節が、いちばん禅寺らしいという皮肉
面白いのは、
佛通寺が最も注目されるのが、いちばん華やかな紅葉の季節だということ。
本来、禅寺は静寂を尊ぶ。
それなのに、人が集まり、色づき、写真が撮られる。
けれどその賑わいの中でも、
境内の空気は不思議と崩れない。
それは、この寺が
何百年も「本質だけを残す」選択を続けてきた場所だからだと思う。

